「幸いな者」待降節第3主日 2023年12月17日
わたしの魂は主をあがめ、/わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう。 ルカによる福音書1:47-48 あなたはどなたですか。 ヨハネによる福音書 1:19
【説教要旨】 「幸いな者」
「あなたはどなたですか」と洗礼者ヨハネに発せられた問いは、同時に洗礼者ヨハネにとって、「私とはなにものか」という問いになってきます。私たちの生涯も、時、時にあって、「あなたはどなたですか」と問いかけられ、「私とはなにものか」と自分自身に問い続けていくことではないでしょうか。
ヨハネ福音書で注目したい言葉があります。「さて、ヨハネの証しはこうである。」という言葉の「証し」という言葉です。次に「質問させた」とあり、「公言して隠さず」、「言い表わした」という言葉が続きます。これらは裁判用語です。「あなたは誰か」と厳しく問われ、そして「私とはなにか」と答えざるを得なくなっているということです。今日こそ厳しく問われ、答えていかなくなっている時代ではないでしょうか。
「私は・・・である」という言葉でなく、「私は・・・でない」というヨハネの答えに注目したいのです。自分を示していくにあたり、自分を否定していくことによって自分が何者であるかということを示しているのです。
そして洗礼者ヨハネは、「ヨハネは答えた。『わたしは水で洗礼
を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。』」と言います。
ここでイエス・キリストを示し、「履物のひもを解く資格もない。」という。それはイエス・キリストが自分を生かてくださらないならその働きもないと言うのである
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今日の交読文の「マリア讃歌―マグニフィカート」の「身分の低い、この主のはしため」の「低い」はフミリタスと言い、謙虚、謙遜と訳せるのです。マリアは謙虚で、謙遜な方として偉大である、だから私たちはマリアのように謙虚で、謙遜であれというのでなく、ルターはフミリタスを「わたしにこのことばフミリタスを『無』、あるいは『見栄えのしない存在』と訳する。これがマリアの意味するところである。すなわち『神は富める名のある、貴い、力ある女王や、また王侯貴族の娘を見出すことが出来たにもかかわらず、貧しく卑しい、見栄えしない娘であるわたしをかえりみた・・・・』」と言います。
マリアが謙虚で、謙遜であるから信仰の模範者であるということではなく、「身分の低い、この主のはしため」とあるように、マリアが無であり、低いもの、見栄えしない者であるゆえに神が目を留めてくださったからマリアは信仰の模範者なのです。無であり、低いもの、見栄えしない者を神は優しく導き給うのです。無であり、低いもの、見栄えしない者を導き、神の恵みの確かさを示し給うのです。
洗礼者ヨハネは、自分は「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と自分は低いもの、見栄えしない者である、「身分の低い、主のはしため」にすぎないというのです。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」。ここではっきりと「私は・・・である。」と言います。「叫ぶ声」だと。「叫ぶ声」とは、「証し」すると言う言葉の意味をもっています。叫ぶ声は、『主の道をまっすぐにせよ』ということです。
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「主の道をまっすぐにせよ。」とあるようにイエスさまが来られるために準備する存在であるというのです。
洗礼者ヨハネが、示してくださったように「私たちが・・である」ということは、「証し」、「キリストは誰である」ということをはっきりと声にしていくとき自分が何であるかということをはっきりと確立することができるのです。私は、神に目を留められ、今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者であるということです。
先先週の聖書箇所は、「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。」でした。
雨宮慧司祭は「揺り動かす」という言葉について「この語は『揺り動かす・ぐらつかせる』を意味します。文字どおりに使われれば、葦が風に『そよぐ』とか、隙間をなくして満たすためにはかりを『揺する』とか、洪水が家を『揺り動かす』とか、地震が牢の土台を『揺り動かす』ことを表します。この最後の用例は暗示しているように、地が揺すられるのは神が介入したことのしるしです。信者たちが祈っていると、その場が『揺れ動き』ましたが、これは祈りが聞き届けられ、聖霊がくだったことのしるしです。造られたものでしかない天と地が『揺り動かされる』のは、それが取り除かれ、代わって神の国、つまり『揺り動かされないもの』が存続するためです。」と言います。
今、劇的変化にあっても昨日も、今日も、明日も、変わらぬものがあります。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったという神の慈しみ、愛に満ちた眼差しです。
今年もクリスマスを迎えます。『無』、あるいは『見栄えのしない存在』の聖母・マリアを通して、レスペクト(目を留めてくださった)という神の真実に目を留めるのが「主の道をまっすぐにせよ。」ということであり、待降節の日々の中で思い起し、揺り動かされている劇的変化の時代にあっても、確かなものと私たちを変えてくださる確かな方が私たちところにおられる。それがクリスマス、キリスト・イエスの誕生の出来事です。
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牧師室の小窓からのぞいてみると
政治とお金の問題がまた噴出している。古くて新しい問題である。政党交付金の公費で政治資金を賄うとい論理自体に無理があるのではないだろうか。そういう意味で共産党が政党交付金を受け取らないことに私は支持できる。
自分の政治の思いに共感してくださる方から政治資金を集めればいいのではないだろうか。またまた、政治資金に多額に必要とされる政治の仕組み自体にも課題があるのではないだろうか。そして、さらに金によってしか政治は動かないという私たちの心に問題がある。しかし、これが事実、現実ということである。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」ということを問いかけられているように受け止めている。
園長・瞑想?迷走記
石垣島で英語教育に取り組んできた徳松先生からいただいたメールを思い出した。教える、教育をするということにつて次のように言っておられます。「結局教える、学ぶという人間と人間との相互行為の前提としてお互いの信頼関係が、不可欠であるということが、分かってきました。」
幼稚園の教育、保育においても同じではないだろうか。15年間、直接に関り、幼い子であるからこそ互いの信頼が必要だとひしひしと思っている。一方的にこちらの価値観で子どもを見ていかない、今を生きているそのままの子ども見ていくことこそ信頼の一歩であること。
何の出来事であったか忘れたが、F先生が、「うちの子には、悪い子はいません。みんな良い子ばかりです」と断言した言葉が今も耳に残っている。この子たちはなんと幸せな子だと感じた。この心からこそ「信頼」ということが産まれてくるのだろう。「みんな良い子」、大切な言葉です。
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日毎の糧
聖書:涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。 種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。主は必ず良いものをお与えになり/わたしたちの地は実りをもたらします。 詩編126:5―6
ルターの言葉から
神は今でも助け救うことがおできになります。そうする力をもっておられ、その意志がないわけではなく、それらのすべては、み 言のうちに包まれているのです。それで私たちは見ることはできません。信仰によって把握することができます。
やがて現れてくださる日には、覆いは取り除けられ、大いなる神として現れ、み名についての義を行われます。そこで人々は「御覧なさい。神は主であり、救い主である」と言うに違いないのです。
1531年の説教から
『マルティン・ルター日々のみことば』鍋谷尭爾編訳 いのちのことば社
覆いは取り除けられる
月本照男先生はこのみ言葉をこう解釈されている。「本詩の最後に付された種蒔きの比喩は、こうした言葉とともに、神が涙を喜びに変えて下さることを望みつつ、辛い日常を生きねばならなかった無名の信仰者たちに励ましと慰めを与えて続けてきたにちがいない。」。「この詩に歌われている民族的な自由の恢復の場合にとどまらない。人生は涙の谷であり、他の詩人も歌っているように涙は夜昼人間の食物である場合がしばしばである(昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。詩編42:4)。涙と共に食を取る経験なき者に人生の何たるかは到底解らぬであろう。しかし、それに耐え抜く者にとって大いなる喜びが彼を待っているのではないか。この短い詩はその平凡にして真実たるわれわれに良く教えている。」と浅野順一先生は仰っている。
祈り:終末のような世界が私たちを覆っています。しかし、神の御手が働き、救いがあることを待つ信仰をください。
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大森通信
7.手書きの 私のストール(牧師が礼拝のときに肩からかけている布)は第6代目牧師の福本秀盛牧師からいただいた年代ものである。色はあせているが西陣織である。先生は色々なことに凝られる方であった。週報も最後まで手書きで書かれていた。もう死語になったガリ版字で、実に綺麗で、味わい深いものであった。 左のクリスマスの聖家族の絵も何かを模写したガリ版刷りのクリスマス・カードの絵である。クリスマスになる度に先生の手書きのこの絵を週報などに載せることにしている。私の自慢のガリ版刷りである。 時代がすごい速さで動き、情報が多く流されて劇的に変化していくなかで、時間を多く必要とする手書きなるものは消えていくのかもしれない。このごろ普通になってきているのだが、パソコンで手紙を打ってくるものがある。事務的処理なら良しとしても、手紙はやはり手書きが良いと思う。そこに出す本人の心が伝わるものがある。幼稚園の「クラスだより」は、手書きである。そこからは先生方のクラスの様子を伝えたいという鼓動が伝わってくる。東京教会の基礎を作った本田伝喜牧師は釘字であったがみんな、先生からの手紙を楽しみに待っていたと伺っている。これを模範として、私は新しい出発が決まった春、クリスマスと年に最低2回、卒園生に葉書を送っている。300枚を越す手紙には必ず手書きのスペースをいれている。 |
(大森日記)土)朝はH幼稚園の理事会・評議員会。夜は、卒園生のお父さんと食事で、卒園生のレストランへ。街に定着した教会を思う。日)制限なしの教会学校のクリスマス礼拝に80名を越える子どもたちが来てくれる。中学生から夕礼拝に出席しているAさんから大学合格の報告をいただく。嬉しい。月)依頼原稿など書いていると一日が過ぎる。火)デンマーク福祉会の理事会。その働きにイエスの御手をいつも見る。お世話になった先に学園長を亡くした名古屋の幼稚園にご挨拶に行く。水)クリスマス・ページェントのリハーサルで保護者の見学を配慮。木)クリスマス・ページェントの本番。金)主日の準備。幼稚園は終了式。よくここまで来たものだと感じている。ホームページ作成。